Rem Koolhaas(レム・コールハース)
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You Tube(Rem Koolhaas)
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→コールハース/OMAの建築はデリダの思想の実践である。モダニズムのイコンであるミースのバルセロナ・パビリオンを展示会場に合わせて曲面に「歪ませ」たり、近代の巨匠の作品(コルビジュエのサヴォア邸やミースのファンズワース邸等)を「引用と接木(コピー&ペースト)」したり「切り刻んだり」「床をめくったり」、クンストハルではデカルト(ユークリッド)的幾何学(グリッドと平らな床)に対して床や柱を傾け、平面にも斜めのサーキュレーションを「介入」させたり。パリの図書館案では、ソリッド(密実)とヴォイド(空隙)を意味的に「反転」させたり、Y2Kという住宅案をポルトのコンサートホールの案に「コンテクストとは関係なし」に「転用」し「拡大」したり、主室と廊下や階段との主従関係を「反転」したり、つまり階段やスロープや廊下は斜めのラインと空間化(立体化)によってスペクタル化し建築の表舞台に復権する(近代以前は階段やスロープや廊下は時代や地域によって色々な意味や用途があったにもかかわらず、モダニズム的機能主義によって単なる「最短の動線」に押しやられてしまい、今でも多くの人々は洗脳されたままである)、これは、既存の形式に対して(建築の場合はモダニズム的形式に対して)外部からの別の形式による批判でなくて、その形式の内部の要素をずらしたり、反転したりするものであり、デリダの「脱構築」である。
また「錯乱のニューヨーク」やその他のテキストの書き方は、デリダが既存の哲学の論文形式の書き方に対して「文学」や「物語」として書いたように、コールハースも「文学」や「物語」として書く。(論文形式(起承転結)は近代的(形而上学的)形式であるため)
また、コールハースはフーコーにも多大に影響されている。「錯乱のニューヨーク」では、マンハッタニズムの歴史を「地層」的に詳細に見てゆく、フーコーの「知の考古学」と同じである。「錯乱のニューヨーク」P.242でコールハースはこう述べる、「考古学 ロックフェラーセンターとは、マンハッタニズムという語られざる理論をもっとも完成した形で外化するものである。その理論とは、エレベーター、設備コア、柱、そして外装という共通項によってのみ結ばれる多様なプログラムをひとつの敷地内に同時的に存在させるものである。ロックフェラー・センターとは、同一の場所で共存する五つの異なるイデオロギーに基づくプロジェクトとして読まれるべきものなのである。これらの五つの層を順次下から上へと辿ってゆくことは、とりもなおさず建築哲学の考古学を実践することになるだろう。」勿論、ここでは近代的「形態は機能に従う」という信仰に対(反)する実例であるが、その読まれる「地層」の中でまた内部の「地層」として入れ子構造のように分析していく。もちろんこの内部の「地層」は外部の「地層」を暗示する。言わばフラクタル構造である。
また、コールハースはドゥルーズとガタリにも影響されている。マンハッタニズムが「欲望する機械」の様に描かれ、そこで描かれるニューヨークの建築家達はそのマンハッタニズムの一つの細胞や器官や機械の一部の様に捉えられている。この「欲望」とは発動している社会的プロセスであり、あらゆる種類の結果=効果を生産するプロセスのことである。これは近代的な「人間」中心主義のマニフェスト(コルビジュエの「建築をめざして」)のようなものとは違い、ポストモダニズム的、ポスト構造主義的考え方であり、「理性」ある「主体」としての「人間(建築家、デザイナー)」が「人間」の為に、「機能的」に「意識的」に「計画(デザイン)」するという近代的信仰に対する疑問の実践である。またコールハースは「自発的に拘束される囚人」で「自発的に」という言葉を使う。これもドゥルーズとガタリが「欲望する機械」としての社会的プロセスの中で、人々は消費社会に加えて、貧困や暴力、ひどい政治体制に反発せずそれに甘んじ、「自発的」に加担さえしてしまうといった現象を挙げるように、コールハース/OMAの計画ではストリップ(細長い敷地)や壁という都市的建築的暴力または権力に対して、「自発的に」人々は拘束された囚人となるということだろう。(これもまた建築は人間のためのものであるいう近代的信仰に対して建築は暴力でもあるという反論でもある。)
また、「S.M.L.XL」はコールハース/OMAの作品集であるが、その編集のされ方は単なる大きさや規模による羅列と辞書の様にアルファベット順による羅列である。近代的な作品集としてのヒエラルキーがない。バルト的、デリダ的である。(井戸)