Rem Koolhaas(レム・コールハース)
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You Tube(Rem Koolhaas)
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→フーコーは、かつての王や国家の様な「見える権力」に対し、現代は、パノプティコン(刑務所などの全展望監視システム)を例に上げて、私達自身が自分自身で足かせを自分にはめているという権力、つまり「見えない権力」を指摘した。コールハースは「形態は機能に従う」というような近代的思考を「神話(つまり日本的に言えばイワシの頭も信心からのイワシの頭)」と呼ぶ。現代、この「神話」は私達みんな(クライアントも建築家も共に)それが無意識の中で真実であると信じているために、それが程よく機能する程度に予定調和的に無意識に作動させられている。これも現代の「見えない権力」だ。
一方、構造主義的に建築の歴史を見ると、「以前の様式主義に対するモダニズムという構造」も、「モダニズムに対する形態上のポストモダンという構造」や「モダニズムに対する形態上のデコンという構造」もさして変わりはない。同じ「構造」である。
デリダはそういった、以前の形式に対する批判としての新しい形式(以前の形式外の批判としての形式)という近代の思想上の構造を問うたのである。そこでデリダは「形式」外ではなく、その「形式」内で、ずらす、あるいは反転させることでその形式の内部解体(意味的な脱構築)を目論んだのである。
コールハースは、今なお無意識的に蔓延する近代的な「機能主義(ヨナ・フリードマンに言わせると統計的フィクション)」に対して、デリダ的な内部崩壊を目指す。リサーチ(近代的な統計調査)という手法をアイロニカルに用いながら、現実の中にスペシフィックな(機能の)要因を見つけ出す。これは近代的な外部からの(神のような)「人間」の視点ではなく、あくまで個々の現実を詳細に見つめるというフーコー的姿勢だ。それによって抽出された要素を「機能主義」が持っている予定調和的な慣習ではなく、ポストヒューマン的に、アイロニカルに、シニカルに、過剰に作動(オーバードライブ)させたり(これがまた二重にアイロニカルだが真の機能主義である)、または反転させたり、ずらすことによって、スペクタクルを出現させる。時には神としての近代的「人間」に皮肉にも悪戯をしでかしたかのごとく床をめくったりさせる。その上結果として生じたこのスペクタクルは、そこまで考えないようなウワベのデザインしか興味のない人々にも彼らに応じたレベルで消費できる様に仕組まれている。実はそこにもまた大衆消費社会を拒絶するのではなく、その形式の内部から、その形式を利用しながらアイロニカルに社会に接していく戦略が見える。コールハースが「ミニマルなデザインは極度の装飾主義に過ぎない」というのも、構造主義的に見れば納得がいくし、コールハースが内装のデザインをOMA外のデザイナーに任せるのもポスト構造主義的に見れば納得する。(井戸)