Hans Ulrich Obrist
Interviews
Volume 1
CHARTA

Rem Koolhaas(レム・コールハース)
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You Tube(Rem Koolhaas)
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Hans Ulrich Obrist (ハンス=ウルリッヒ・オブリスト)
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You Tube(Hans Ulrich Obrist)
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P.509
HUO:壁(ベルリンの壁)の消失、それが完全に消されてしまった事実についてはどのように感じますか?

RK:80年代の初頭に私達は壁の崩壊を予期していたベルリンのためのコンペ(設計競技)を沢山した。すべての痕跡を取り払うことなしに新しい始まりを作った「壁の晩年(死後の生)」のプロポーザルなど・・・。

HUO:IBAの建物?

RK:そうだ。しかしそれは今の建物ではない。コンペの初期において、それはもっと興味深かったし、より開かれた状況で、それは壁が壁(ベルリンの壁)の衝撃を締め出していた(無視していた)ものだった・・・。それは単順にあなたがほとんど壁(ベルリンの壁)の隣に住むことができえた壁の増殖を通してのものだった。私達は壁(ベルリンの壁)のゾーン(領域)は結局、公園、つまり都市全体のの中の一種の保護された状態となり得たと考えた。壁の崩壊の後に消失した最初のことはそのすべての痕跡だったので私はぞっとした。私はそのような記憶の批評的な部分がディベロッパーあるいは商業的企業によってではなくて、単順に純粋なイデオロギーの名の下に、本当に悲劇的にも、消されてきたということは気違いじみたことだと考えている。そのパラドックス(逆説)は、今完全には理解できない「中国の状況」を創り出しているということだ。

→おそらくここで述べられているコンペは「SMLXL」のP.254~277のHousing Kochstrasse/Friedrichstrasse Berlin,Germany Competition,1980だと思われる。ここではレム/OMAはヒルベルザイマーの「スラブの都市」やミースの「フリードリッヒ街のスカイスクレイパー」、「車庫付きコートハウス」やドゥースブルフのペインティングを参照しながら壁が交差し増殖するコートハウス群の低層集合住宅を提案している。(井戸)

HUO:ベッヒャー夫妻がドキュメントした(詳細に記した)全体的な産業的建築の消失とそれは比較できますか?

Hilla and Bernd Becher
http://www.artphoto-site.com/story91.html
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RK:しかし、少なくともそれはアクシデント(偶然の出来事)によって消失した。壁(ベルリンの壁)は故意に消失した、歴史の名において。

HUO:あなたの実現化されたIBAの建物について話してもらえませんか?

RK:実は、私はFreiedrichstadtブロックの再建の全体的な概念によってとても感情を害したので、私はIBAの建物に取り組まなかった。私のパートナーであるエリア・ゼンゲリスがしたんだ。彼はコンペをしなかった、だから彼はチェックポイント・チャーリーの敷地とより客観的な関係を持てた。一つの種の建築的プロポーザルから全体として反対のプロポーザルへ動くことは私にとっては信じられないことだった。だから私はそれをできなかった。

Elia Zenghelis(エリア・ゼンゲリス)
http://en.wikipedia.org/wiki/Elia_Zenghelis

HUO:しかし、あなたは現在のベルリンのプロジェクトにまさに巻き込まれていますよね・・・。

RK:そう。それはとてもエキサイティング(刺激的)だ。それは80年代の初頭だった。

P.510
RK:90年代の初頭には私は私が結果と一致しなかったポツダム広場のコンペに参加した。事実、結果程でもなかったが、議論の全体としての内容があり、議論の毒々しさがあり、前へ進める論争があった。

HUO:あなたは(ダニエル・)リベスキンドに、マスター・プランがあるべきでないという、全体としての解決があるべきでないという、それはより異種の、異常な、そして断片的なものであるべきだという彼の考えに同意できますか?

Daniel Libeskind(ダニエル・リベスキンド)
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http://en.wikipedia.org/wiki/Daniel_Libeskind
You Tube(Daniel Libeskind)
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RK:多くの美しいプロジェクトがあった、リベスキンドによるプロジェクトだけでなくて(ウィリアム・)アルソップによるプロジェクトもそうだ。(ハンス・)コールホフもまた本当に興味深かった。他の言葉で言えば、それは興味深い提案が一つもなかったのではなく、それらの3人、アルソップとリベスキンドとコールホフは、その時、ベルリンのエッセンス(本質)であった破壊と取り組め得た、そして修繕し統合的なメトロポリスを(再び)創り出すことから外れずにいられた建築家の一つの集団にいた。

William Alsop(ウィリアム・アルソップ)
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Hans Kollhoff(ハンス・コールホフ)
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