El croquis AMOMA REM KOOLHAAS 134/135

Rem Koolhaas(レム・コールハース)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=Rem+Koolhaas&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
You Tube(Rem Koolhaas)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Rem+Koolhaas&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

P.356
B.C. :どこで(錯乱のニューヨーク)を執筆を始めたの、IAUS(Institute of Architecture and Urban Studies)で?

IAUS(Institute of Architecture and Urban Studies)
http://www.institute-ny.org/

R.K.:いいや、執筆を始めたのはロンドンのみだ。私はアメリカでは執筆できなかった。私がAAスクールに教えるために帰ったとき、私は1週間の講義をし、それが如何に私がその本を発展させたかということであり、それが私がその執筆をした場所である。

B.C.:それじゃ、あなたは、72年から77年乃間の5年間の間にあなたがしたすべてはリサーチだったと言っているの?あなたはまったく執筆しなかったと?たとえ論説(論文)でさえも、何も?

R.K.:いいや、私は1931年のBeaux Arts Costume Ballと「basin girl」(すべての建築家が建物として着飾って、婦人であるEdna Cowanはbasin(洗面器)として着飾っていて、建築の内蔵(内部)を表現していた。)についての一つの論文があると思う。それはOppositionsで出版された。

B.C.:しかし主にあなたは写真をちょうど集めていたのでは・・・。

R.K.:しかし私が私自身に執筆を強いることができなかったのは何故なのかはわからない。それは私がしていた講義シリーズをするためのこの義務の中に自分自身を置くときのみだった。

B.C.:あなたはロンドンで執筆したということだが、ロンドンの何処で?

R.K.:家で・・・・。私達は6つも部屋があるとても大きな家を持っていた。

B.C.:あなたは部屋の中に閉じこもったの?

R.K.:そうだ。現にそれが重要だった・・・。IAUSではいつもこの種のプレッシャー・・・パーソナリティー(個性)や活動があった。しかし勿論、私の頭の中ではそれは発展していた・・・。それの初めての成熟した部分はダリとコルビジュエの物語だ。いくらかのイメージを発見したり追い払うためにはいかに長く時間がかかるかあなたには本当に見当が付かない。例えば、私はWallace Harrisonとの親交を「発見し」築き、彼についての展示を行った、それでやっとUNアーカイブはアクセス可能となった。私はロックフェラー・センターのオリジナルのスケッチブックを得るためにマサチューセッツの浜にあるモビール・ハウス(移動住宅)に住む引退した建築家を訪ねた。

Salvador Dali(サルバドール・ダリ)
http://images.google.co.jp/images?svnum=10&um=1&hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=Salvador+Dali&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5
Le Corbusier(ル・コルビジュエ)
http://images.google.co.jp/images?svnum=10&um=1&hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=Le+Corbusier&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5

B.C.:あなたは殆どイメージ(図)について話している。他のドキュメント(文書)についてはどうですか?図書館に行ったの?

R.K.:ああ、私はニューヨーク図書館に行って、終わりのないような量のマイクロフィルムをチェックした。ある新聞数社の数年分を完全に本当に通してチェックした・・・・。これはニューヨーク図書館のマイクロフィルムだ。(錯乱のニューヨークのコニー・アイランドのプランを指し示しながら)

B.C.:あなたはフィルム(映画)からスチル(普通写真、静止写真)もとったの?

R.K.:いいや、例えば、コニー・アイランドの情報のすべては新聞やマイクロフィルムからのものだ。私はこれは本当に信じられないイメージだと考えている。これはすべてポストカードだ。(錯乱のニューヨークのページを指し示しながら)それは単純に他のいかなる方法においても存在しなかっただろう。だからそれはマイクロフィルムや個人のアーカイブやポストカードだった。

P.357
B.C.:本当にたくさんいる、生き残っている(主義・運動の)主唱者へのインタヴューについてはどうですか?誰にインタヴューしましたか?

R.K.:ダリやウォーホルやフィリップ・ジョンソンやKilhamやHarrisonやBunschaft・・・。

Andy Warhol(アンディー・ウォーホル)
http://images.google.co.jp/images?svnum=10&um=1&hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=Andy+Warhol&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5
Philip Johnson(フィリップ・ジョンソン)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=UTF-8&oe=Shift_JIS&q=Philip+Johnson&lr=&um=1&sa=N&tab=wi

B.C.:多くの点において、それはそれに対してたくさんのジャーナリスティックなモード(流儀)を持っていたのではないか。

R.K.:ああ、それはよりおおくの時が経つにつれて、締め切りのない、私がジャーナリストとしてしてきたことの拡張だった。終わり近くになって、私がミッシング・ピース(失われたかけら)を見つけることができるところについての一種のテレパシーを私は発展させた。最後の週に私はラジオシティー(ニューヨークのロックフェラー・センターのある一角)の屋根裏に信じれないくらいのドキュメントを見つけた。

B.C.:その本(錯乱のニューヨーク)は信じられないドキュメントで満ちている。

R.K.:それは本当にドキュメンテーション(文書資料の分類整理)だった。そしてそれは執筆とは両立しがたいもののように見えた。