The World of Madelon Vriesendorp: Paintings/Postcards/Objects/Games
Architectural Association

Madelon Vriesendorp(マデロン・ヴリーゼンドープ)
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http://en.wikipedia.org/wiki/Madelon_Vriesendorp
Rem Koolhaas(レム・コールハース)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=Rem+Koolhaas&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
You Tube(Rem Koolhaas)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Rem+Koolhaas&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

P.254
EXTRODUCTORY
Shumon BasarとStephan Trubyとレム・コールハースの会話
厄介な親切さと究極の知恵
寛大さのアートにおいて
あらかじめの理論

Shumon Basar & Stephan Truby:世界は理論によって作られもし、理論によって作られもしない。一つの理論は別の理論に力で取って代わり、しばらくの間信用できるものとしてとどまり、それからより新しいより良い理論によってそれ自身もはや必要のないものにされる。時折(サブジェクト(主題、主体)あるいは人の)幾つかの相対する理論が、その近接を知る中で、一方が他方の価値を下げたりあるいはおとしめたりすることなしに、幸運にも共存し得る。この様な方法で、理論は仮定された知識と誤った事実の奇妙な帝国を生成する。分析家やシャーマンや訪問セールスマンの間の何処かが打たれ(突かれ)、理論家は他者がその世界をどのように知覚しているかを再編成することによって世界を部分的に変える。
「The World of Madelon Vriesendorp」のキュレーターとして、私達はそのアーティストや彼女の人生や彼女の作品についての沢山の理論を生み出すことを強いられた。事実、何故なら特に、ヴリーゼンドープの「気晴らしの生産性」は、それはFenna Haakma Wagenaarのフレーズを借りたものだが、継ぎ目なく繋がっているアートや生活(人生)や作品によってエネルギーが供給されていて、私達の理論は様々なより糸のもつれをほどくことに焦点を合わす傾向がある。

→コールハースはフーコーやデリダやドゥルーズ=ガタリの影響を多大に受けている。ニーチェが系譜学を使ってキリスト教の真理を攻撃した様に、フーコーが考古学(系譜学)を使って見えない権力(生の権力)を暴いた様に、「錯乱のニューヨーク」では考古学(系譜学)を使って近代的思考のアーバニズムを攻撃し現実の姿を暴く。それはバルトが「記号の国」を日本をダシに使って描いたように、ニューヨークをダシに使って描いたものだ。またその中ではドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」の影響もまた大きい。この様に都市分析や理論においては、フーコーやドゥルーズ=ガタリの影響が大きいのだが、建築の設計となるとむしろデリダよりになる。それはデリダとドゥルーズの違いを戦略的に考えれば見えてくる。一般的にドゥルーズの設計への解釈としてよくあるのは、一つは「襞」をそのまま建築にし壁や床という記号を宙吊りにし現象学的身体的なものへ開くという方法がある。もう一つは流動する世界へ建築家自身が飛び込む、よって可能性ではなく潜在性の中に飛び込むことになるから、主体としての建築家はなくなり、青写真がなく完成予想はしないまま設計し、結果は建築家自身も予期しないものになるというものだ。しかしこれは、日常を流動した世界として肯定的に見る方法であるから、結果としてできた建物はどこにでもあるものになってしまう可能性もある。これは建築家の作家性を批判するのに用いられる場合もあるが、このようなプロセスに満足してしまうことは作家性による満足とさほど違いはない。コールハースの形態上の嗜好(コンスタンやロシア構成主義)を考えれば、この様な現今のドゥルーズ的な設計方法よりもデリダ的な脱構築的操作を使う方が適当であるのは明白だ。まして複雑系やオートポイエーシスの様な理論を適用する様なこともコールハースはしない。何故ならそれこそ何か一つの理論で世界が記述できると考える形而上学的思考であるからだ(DVDのインタヴューでも答えている)。スペクタクルや作家性を否定するのでなく(否定するのであればヘーゲル的な弁証法の枠内にいるままになる)それをうまく乗りこなすこと、現象学的世界の外には行けないのであるから「不在」を現象させること、を戦略的に選んだのだろう。(井戸)

Friedrich Wilhelm Nietzsche(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7
Michel Foucault(ミシェル・フーコー)
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Gilles Deleuze(ジル・ドゥルーズ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA
Pierre-Félix Guattari(ピエール=フェリックス・ガタリ)
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Jacques Derrida(ジャック・デリダ)
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Roland Barthes(ロラン・バルト)
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Georg Wilhelm Friedrich Hegel(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル)
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