El croquis 86 MVRDV 1991-1997(El croquis 86+111 MVRDV 1991-2002)

MVRDV
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Luis Moreno Mansilla + Emilio Tunon ←インタヴュアー
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P.23(P.27)
MVRDV:論争の余地があり想像できる非線形の遠近図法を打ち立てるために、私達が階段が必要な時にそれを階段にし、スロープが必要な時にそれをスロープにし、丘が必要な時にそれを丘にする等々するかもしれないため、私達は床のすべての操作に理由を与えようとすることはできないのか?そして勿論これらの技術で、ランドスケープは建築に導入される。それはまた勿論内部と外部の連続性についてでもある。

P.25(P.29)
MVRDV:80年代にはその議論はスクリーンについてだった、だから問題はファサードのレイヤー化に焦点が当てられていた、もしそれらが全体的に透過でき、エントロピー的等々であるべきであれば、どういうわけかこの議論が今も進行していて、だから実際に建物全体が、内部空間全体がランドスケープの移り変わりへの主題になった。

ヴォリューム/サーフェス
LMM+ET:「Department Store at Meent」あるいは「Double House in Utrecht」の様に、サーフェス(表面)の結果としてのヴォリュームのフォーメーション(構成)は魅力的だ。それはここでは空間がヴォリュームの間よりもサーフェスの間に生きている(残っている)様に思われる。単一の折り畳まれた平面がフォーム(形態、形式)や、床や天井や壁への連続(一続き)や、彫刻的な平面を与えることを考えることは興味深い。これらのサーフェスは時々、「VPRO」の内部のランドスケープや、あるいはより独立した方法では、「Church in Barendrecht」あるいはサーフェスの折り畳みが水を入れている「Sloterpark Swimming pool」の中の地形的なフォーム(形態、形式)を持っている。「Villa in Hasselt」の様な他の建物は、フェース(表面)の間の自由な空間から現われる活力をともなったドライなヴォリュームの積み重ねから現われる。両方の場合とも、斜めに横断する視覚と交差したイルミネーション(照明、啓蒙)はその空間に質を授ける、だからその部屋は(それらは閉じられてはいないが)閉じられたヴォリュームの外部の様に見える。多くのレベルの同時に起こる眺めは観察者の中に衝突と疑いを生み出し、知覚をより活発(鋭敏)にする。この技術は現今では建築的空間の表現ですか?

MVRDV:私はあなたが過度にフォーマル(形式的、慣習的、形態的)な問いを尋ねているように思う!私達は時々ファサードにガラスを使うべき時と使うべきでない時について議論をする。その討論はあなたの話題を要約するかもしれない。時々あなたは親密さを必要とする。あなたはいつ親密さを必要とするのか?それはいつパブリックに成り得るのか?それらの間の境界はパブリックなものと親密なものがそのように混ざり合った転換点(時期、段階)の興味をそそる。この概念をどのように扱うのか?おそらく時には極限へのパブリックなものの拡張を通してこれを示すことや、この様にして生き残る為の一つの方法として「集中(濃縮)」を力で引き出すそうとすることによってであるかもしれない。