Conversations with Mies van der Rohe
Moises Puente,editor
Princeton Architectural Press

Mies van der Rohe(ミース・ファン・デル・ローエ)
http://images.google.co.jp/images?client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official&channel=s&hl=ja&q=Mies%20van%20der%20Rohe&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%A8
You Tube(Mies van der Rohe)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Mies+van+der+Rohe&search_type=&aq=f

P.8
建築とテクノロジー
1950年(←ミースが64歳の時の文章)
ミース・ファン・デル・ローエ

テクノロジーは過去に根(起源)を持つ。
それは現在を支配し未来に結果的につながる。
それは現実の歴史的なムーヴメント(動向)であり、偉大なムーヴメント(動向)の一つはそれら自身のエポック(新時代を開くできごと)を形作り表わしている。
それはパーソン(人間)としてのマン(人間)の伝統的な発見や、力(権力)へのローマ人の意志や、中世の宗教運動にのみ匹敵しうる。
テクノロジーはメソッド(方法、手段)よりもはるかに上のものであり、それ(テクノロジー)は世界それ自身の中の世界である。
メソッド(方法、手段)としてそれ(テクノロジー)は殆どすべての点において上位である。
しかし、それが機械の構築物の中や、工学技術の巨大な構造の中でのそれ自身として放置されたところでのみ、そこでのテクノロジーはそれ自身の真のネイチャー(本質)を明らかにする(現す)。
そこで、それは実用的な手段だけではなく、それは何か、それ自身の中の何か、意味と力強いフォーム(形態、形式)を持っている何かであり、それは事実あまりに力強いので、それに名前を与えることは容易でないということは明白である。
それはまだテクノロジーなのか?あるいはそれは建築なのか?
そしてそれが何故いくらかの人々が建築は流行遅れになるだろうとかテクノロジーに取って代わられるだろうと確信させられる理由かもしれない。

P.9
そのような確信は明確な思考に基づいていない。
正反対のことが起こる。
テクノロジーがそれの現実の履行に到達するどこでも、それはそれの限界を超えて建築に入っていく。
建築が事実に依拠していることは真実だが、そのアクティヴィティー(活動、営為)の現実のフィールド(舞台、現場)は重要性(意味あること)の領域である。
私はあなた方が建築がフォーム(形態、形式)の発明(創案)とは何の関係もないということを理解することを望んでいる。
それは子供や若者や年配者の為の遊び場ではない。
建築は精神の現実の戦場である。
建築はエポック(新時代を開くできごと)の歴史を書き記し、それらにそれら自身の名前を与えてきた。
建築はそれの時代(時間)に依拠している。
それはそれの内部の構造の結晶化であり、それのフォーム(形態、形式)のゆっくりとした開示である。
それは何故テクノロジーと建築がそんなにも密接に関係しているかという理由である。
私達の真の望みはそれらが共に成長し、いつか一方がもう一方の表現になることである。
そうなってはじめて、私達はその名前に相応しい建築を手にするだろう、
私達の時代の真のシンボル(象徴)としての建築として。