Michael Heizer
Germano Celant
Fondazione Prada
Michael Heizer(マイケル・ハイザー)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=Michael+Heizer&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
P.142
M.H.:私にとって気候の変化は、彫刻に生命をより吹き込むための教訓的な指し示された方法だった。外部で彫刻を作るにおいて、人は2つのポジション(立ち位置)を取り得る。一つは気候を拒絶し無視し、保護する物を計画することによってそれは達成されるというもの、もう一つは、降水や風やほこりや土を通した侵食を組み込むことである。天候を通して調子を変えることは自然(本質的、現実的)なことだ。着用物を我慢することは、十分に感じられるが必ずしも真のアートには必要とはされない価値を与えようと試みることである・・・。私は外部で作業することによって新しいマテリアルと新しいコンディションを見つけた。私はインテリア(内部)の術策(技巧、工夫、考案)よりも現象学の衝撃に関係するようになった。私は天候とその破壊的な効果と闘わなければならなかった。しかし、私達も知っての通り、彫刻の歴史は、殆ど人かあるいは自然の現象によってダメージを与えられた残存物か断片からなっている。
現象学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6
P.144
M.H.:澄みきった日にアルプス山脈は60マイル離れたところから見られる、くぼみの後ろで。右派(保守派)に対して、住宅供給の発展は速やかに侵食していた。2ヶ月の内にその作品は高層の集合住宅によって取り囲まれてしまった。建築の全面的に広がった(勢力をふるう)優位(支配)はとことんそのフィールドに拡張してきた。ついに、その場所の中のくぼみと構築された実体的で実用的なオブジェクトで満たされたその土地を建築家達が徴発(接収)した・・・。このセッティングの中の作品の永久的な設置を求めた建築家達への私の提案は、建物の影が決してその作品に触れないだけの十分な土地がその作品を取り囲むということの明文化を含んでいた。
P.152
M.H.:司教の(大聖堂の)擬人化(人格化)は多いにアートを侵食する。アートは、有用性(魔法)の、正当化(宗教、信仰)の、装飾(建築)の数千年に服従してきた。教会についての最もソリッドな(連続している)ことはそれが大地の上にあることである。それは基本とされ揺るぎない。アートは従属的な(役立つ、へつらう)安物のようにこの環境に適合する。実用的なニュアンスはまだ現代的な(同時代的な)対話に全面的に広がっている(勢力をふるっている)。
→「アートは無用さ(非実用性)を失うとアートでなくなる。」とたしかリチャード・セラがインタヴューで言っていたと思うが、それには僕も同感である。僕が現代アートを見るときの基準は、一つはマレーヴィチが言ったようにアートの本質である「感覚」つまり観察者を包み込むその作品の世界観の「感覚の質と強さ」であり、もう一つはデュシャン的なあるいはデリダ的な「形式」の内部にいながらその「形式」を反転したりずらしたりすることによって、隠れている「形式」を露にする「語り」のバランスである。(井戸)
P.161
M.H.:私は単にヨーロッパのアートを続けるのではなくて、アメリカのアートの発展へ寄与する者になることを決心した。私は計画的に(わざと)アメリカのアートを発展させることにトライしてきていて、私が許されていると感じる唯一の源泉はアメリカのもの(人)、南アメリカのもの(人)、メソアメリカのもの(人)あるいは北アメリカのもの(人)である。