minimum
John Pawson
PHAIDON

John Pawson(ジョン・ポーソン)
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P.6
Minimum John Pawson

P.7
この本は建築とアートに適用されうるものとしてのシンプリシティー(シンプルさ)の概念についてのいくらかの考えを明確にする(結晶化させる)試みである。そしてそれを越えて、生活の仕方としてのシンプリシティーを議論するためのものであり、毎日の儀式と存在(実在)の必要性を秩序だて定義する方法としてシンプリシティーを見るためのものである。それは「ミニマム」の考えを試す試みであり、それはシンプリシティーの追求(研究)として、思考の仕方として、創造的に作業するために持ち出される可能性を探究する方法として見られうる。
ミニマムは、それが引き算によってそれを改良することができなくなったときに人工物が成し遂げる完成として定義されえた。これは、すべての構成要素やすべてのディテールやすべての接合がその本質に還元され凝縮されたときオブジェクトが持つ質である。それは本質的でないものを省くことの結果である。
ここで強調すべきことは視覚である。シンプリシティーの考えは多くの文化によって共有された立ち戻った考えであり、それら(多くの文化)のすべては過剰な所有の出口のない重荷から自由になる生活の方法を探している。日本の禅の概念から、ソローのシンプリシティーの探究まで、ミニマルな生活はいつも、些細なことによって悩まされるよりも、開放の感覚や、存在(実在)の本質に触れているという機会を提供してきた。明らかにシンプリシティーは純粋に美的なものを越えたそれに対する次元を持っていて、それはいくらかの内在的な(本質的な)、内的な質の反映として、あるいはハーモニー(調和)や根拠や真実のネイチャー(本質)への哲学的あるいは文学的な洞察の追求(研究)として見られうる。シンプリシティーはモラル・ディメンション(倫理的な次元)を持っており、それは無私(無欲性、献身性)とこの世のものでないこと(精神界性、超俗性)を含意している。シンプリシティーの崇拝は、クエーカー(キリスト友会の会員)から仏教徒まで、ほとんどすべての種類の宗教的で精神的な宗派によって弁護されてきて、彼らによって表現されてきた、彼らの信仰が他のなんであろうと、精神を浄化しうるものとして、信者に内的な静穏の感覚をもたらしうるものとして。
この本の多くは、年月を超えて私に訴えかけてきた特別な種類のシンプリシティーの本質的な質をとらえたイメージの形態を採っている。

Henry David Thoreau(ヘンリー・ディヴィッド・ソロー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%83%BC

P.8
私は建築家である、だからおそらく意外でもないが、この本の多くは建築を扱っている。有史前のメキシコから、太古のエジプトから、同様にローマやムーア人のグラナダからの建築がある。ハイ・モダニズム、ル・コルビジュエやミース・ファン・デル・ローエやルイス・カーンなどもある。そして現代の建築もまたある。これらすべての建築家の作品はその中に穀物サイロや納屋や田舎家や橋や壁や階段や墓場やダムや道で見つけられうる質を持っていて、それらのすべてもまたここに載せている。工学技術や構造物だけに限定していない。庭も含まれている、ルイス・バラガンのランドスケープから中国の湖の日本版まで?