HERZOG & DE MEURON 1992-1996
The Complete Works Volume 3
P.230
R.Z.:私は、新しい考えや提言を受け入れる態度を意味している。未来の建物や絵画がどのように見えるべきかを今日知ることを拒むことだ。それはアートは何か、建築とは何かということを知ろうとしない意志である。もし私達がアートや建築が何であるか知っていたなら、私達(J.H.とR.Z.)は建築についてまたはアートについて私達が知りえることの例示をただ単に創り出すだけであるからだ。私はランボーが詩とは何かということを知っていたとは考えない。例え詩が彼にとって全てだったと私達が知っていると今日信じているとしても。
Jean Nicolas Rimbaud
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC
P.231
J.H.:私達はアートと建築を同時に行うことは不可能だと学んだ。例え今日沢山の建築家達が自分自身を画家や彫刻家としてとらえ、他方ではあるアーティストが建築に鞍替えしていようとも、一人の人間がこれら二つの活動を統一することはできない。
コルビジュエを例に挙げよう。彼は見ることと知覚することの違う方法があることを見なかった。たとえこれがこの時期の根本的な発見の内の一つだったにも関わらず。このように「建築家ー都市計画家」として彼は「存在している」町や「そのふさわしい」町を見なかった。そしてアーティストとして彼は彼の時代のアヴァンギャルド・アートが如何に知覚していたかをも知らなかった。どうして彼は彼の退屈なキャンバスを創り出すことに人生の半分を費やすことができたのだろうか?どうして彼は存在する町や彼を取り巻くようになる町をばかにしたように、同時代のアートを笑うことができたのだろう?
(以下延々とコルビジュエに対する疑問が続くが省略し、以下ざっくりまとめると 井戸)
カーペンターセンターはよく同世代に称賛されるが、町中に建つカーペンターセンターはばかげたくだらないものだ。それぞれの形態がいったい町中でなんの意味をもつというのか?コルビジュエは混乱していたのではないか。彼の画家や彫刻家としての活動が彼のクリアな視界や建築家としての批評的なヴィジョンを曇らせたのではないか。一方、ロンシャンの教会は素晴らしいものだ。結局コルビジュエの建築は何もないような場所では素晴らしいが、町中ではどうしようもないものである。
Le Corbusier
http://images.google.co.jp/images?q=Le+Corbusier&ie=Shift_JIS&hl=ja&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5
Carpenter Center
http://images.google.co.jp/images?svnum=10&hl=ja&inlang=ja&lr=&ie=Shift_JIS&q=Carpenter+Center&btnG=Google+%8C%9F%8D%F5
Ronchamp
http://images.google.co.jp/images?svnum=10&hl=ja&inlang=ja&lr=&ie=Shift_JIS&q=Ronchamp&btnG=Google+%8C%9F%8D%F5