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A Conversation between Jacques Herzog and Jeff Wall,moderated by Philip Ursprung

Jacques Herzog(ジャック・ヘルツォーク)
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Jeff Wall(ジェフ・ウォール)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=UTF-8&oe=Shift_JIS&q=Jeff+Wall&lr=&um=1&sa=N&tab=wi

P.53
Wall:いいえ、いいえ、私はサーフェス(表面)にとても興味がある。しかし私は私のサーフェス(表面)が、とても細かい粒子とともに、それらが見える様に見える様にしたい。それは殆ど私が興味を持っている唯一の事で、サーフェス(表面)の、粒子の、フィジカル(物質、物理、身体)的なものの質の様な、描写のフォーマル(形式的)な側面の様な事である。

Herzog:しかしあなたは、例えばゲルハルト・リヒターあるいは、さらには、トーマス・ルフの最近の作品jpg structure・・・の様に、自己-包含した論点としてそれを扱わない。

Gerhard Richter(ゲルハルト・リヒター)
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Thomas Ruff(トーマス・ルフ)
http://images.google.co.jp/images?client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official&channel=s&hl=ja&source=hp&q=Thomas%20Ruff&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

Wall:・・・あなたはピクセル(画素)を目に見える様にすることを意味している。私は目に見える粒子あるいはピクセレーション(画像を画素に分解すること、方形模様を重ねて画像をぼかすこと)を求めていないし、私は、私がより重要だと思うピクトリアルな(絵のような)質からそれがそれていると思う。写真の決定的な質はピクチャー(画像)のサーフェス(表面)が目に見えない、あるいは目に見えない様に思われるというセンス(感覚、意味)である。これは写真を絵画と区別する。つまり絵画ではサーフェス(表面)はフィジカル(物質的、物理的、身体的)に目に見え、その上イリュージョンがそのビジビリティー(目に見えること)から生じている。写真家達がそれを模倣しようとする時、彼らは殆どいつも失敗する、なぜなら写真は絵画とは同じメディウム(媒体)ではないからだ。それだけドラマティック(劇的、芝居じみている)なのは、サーフェス(表面)のインビジビリティー(目に見えなさ)である。写真の中で、写真の中の活写されたものを見る瞬間に、あなたが経験していることは、サーフェス(表面)のインビジビリティー(目に見えなさ)である。

Herzog:それは、それをより一層非物質的に(重要でない様に、実体の無いように)する為に、それにあなたが照明をあてる理由ですか?

Wall:私はそれは本質的(最も重要)だとは思わないけれども、それは可能だ。私はピクセル(画素)のマーク(斑点)の強調を絵画の規範の模倣を指し示すこととして見ている。私は写真のサーフェス(表面)のインビジビリティー(目に見えなさ)や、そのインタンジビリティー(触れることのできなさ、触知しがたさ、実体のなさ)を強調することは、写真のメディウム(媒体)にはより真実であると感じる。粒子の過度の強調は、写真を絵画の様に見える様にする一つの方法である。もしあなたの写真の粒子があまりにも大きすぎるのであれば、それはあなたがネガをあまりにも引き伸ばし過ぎたからである。あなたはスケールアウトしている。