Picture of Architecture-Architecture of Picture
A Conversation between Jacques Herzog and Jeff Wall,moderated by Philip Ursprung

Jacques Herzog(ジャック・ヘルツォーグ)
http://images.google.co.jp/images?q=Jacques+Herzog&svnum=10&um=1&hl=ja&lr=&inlang=ja&ie=UTF-8&oe=Shift_JIS&start=20&sa=N
Jeff Wall(ジェフ・ウォール)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=UTF-8&oe=Shift_JIS&q=Jeff+Wall&lr=&um=1&sa=N&tab=wi

P.33
Herzog:あなたはどのようにして「The Stumbling Block(つまずきの石)」(図、P.28)を撮ったのですか?

Wall:私は背景を写真に収めたんだ、たくさんの人物といっしょに、街路から外れて。それから私は前面の歩道エリアを測りスタジオにそれの1/20フィートで再現した。私はスタジオで多くの主な人物を写真に撮り、それからコンピューターを使って街路で撮った他の人物の写っている写真と合成した。

Herzog:あなたはその町を背景に投影したのか?

Wall:その種の投影は完全に今では不必要なものだ。

Herzog:それはまさにあなたの想像の中にあるものか?

P.42
Wall:いいや、すべてのピクチャー(写真)は街路あるいはスタジオの実際のロケーション(場所)で作られ、それからコンピューターで統合された。

Herzog:例えば一つの建物を取り去って他の建物をそこに置いたり、それはより高かったりあるいは低かったり、ガラスが多かったりあるいは少なかったり、「理想的な町」を得るために、あなたはかつて建築の背景を再配置する必要性を感じましたか?

Wall:いいえ。私は偶然のできごとと変な不完全な状況が好きだ、なぜならそれが写真の本質だからだ。私は建築家はプロジェクトを可能なあるいは暫定的な「完全な状況」として想像できると考える。私はいつも不完全さと出くわすのに対して、建築家としてあなたはあなたの作品のこの完成は可能であるという感覚を持つことができると私は推測する。それは私がそれを捜しているのではなくて、それが私達が実際に建物の中で生活している習慣であるということを私が感じるからである。だから私が「来るべき建物」と呼ぶであろうものの不完全さとサブリミナルな(閾下の)要素は、その空間の経験に注意を払っている人々の感受性の中でいつも空中に舞っている。私はそれもまたナチュラル・スペース(本質的な空間)にとっては真実であると考える。

Herzog:不完全さの考えは二つの点で建築に直接的に関係がある。それは物質的な(身体的な)ウェアー(着用物、被覆)や年月を経ることを通してと、人々が建築を使用するその予期できなさ(きまぐれさ)とその慣習を変えることを通してである。私達のプロジェクトの多くはそのデザイン(計画)の絶対必要な(統合された、完全な)部分として不完全さを組み込んでいる。あなたはそれを、永続性あるいは「firmitas(安定性?、確定性?、堅実性?)」の主張への代替的な戦略のように、例えば建築に対する様々なネオ・クラシカルな(新古典主義的な)アプローチによって実例を出されるように、見るだろう。しかし、いずれにしても、プロジェクトがそのような過程(方法)の中で解体や破壊あるいは忘れ去られることからよりよく保護されることは議論の余地のある問題だ。

→これもまたヘルツォーグがインタビューの度に重要だと述べるambiguity(曖昧性、両面性、多義性)のことだろう。(井戸)

Wall:あなたは建物の使用が変化し始めるまでそのプロセスをスピードアップしようとしていると私は思う。あなたは歴史的なプロセスを加速する方法を見つけようとしている。あなたは成功できるとは思わないが、しかしそれは問題ではない、なぜなら本当に変化するものは如何にあなたが建築を実践するかというネイチャー(本質)であるからである。

P.43
Herzog:それは私達が私達自身を変形させる為に建築と都市を変形させる過程を構想しているということを意味しているのですか?私達は私達自身の建築を人生(生活)を理解する為の知覚の道具としてことばで述べてきた。

Wall:それはおおいにモダニストだと思う。プレ・モダン(近代以前)の文化では、建物のマニフェスト(宣言)的な使用は異なる方法の中で決定されたと思う。教会として建てられた建物は教会として使用され、それについてはほとんど疑義がなかった。誰も他の使用を提案する権利を持っていなかった。しかしこれはおそらく教会のような顕著なものにだけ適用されるのだろう。