Felix Gonzalez-Torres
edited by Julie Ault
steidl dandin Publishers

Felix Gonzalez-Torres(フェリックス・ゴンザレス=トレス)
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http://www.b-sou.com/palm-Gonzalez.htm
YouTube(Felix Gonzalez-Torres)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Felix+Gonzalez-Torres&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

P.45
RN:あなたが置き去りにしたものはアンチ・モニュメンタル(非記念碑的)であり、それはその変化流動性(一時性)によるものだけでなく、そのスケールにもよっている。あなたは、それがとてもおしつけがましくない(目立たない)「モニュメント(記念碑)」と呼ばれるピースをまさに持っている。

→アンチ・モニュメンタルの作品と言えば、ブルース・ナウマンのDepression(モニュメントの「象徴」であるピラミッドを反転させて地面に掘込んだ作品)を連想するが、ナウマンの作品が「形式」に対する反転や意味のずらしであり、ある意味デュシャン的あるいはデリダ的なのに対し、フェリックス・ゴンザレス=トレスの非モミュメンタル性はもっと繊細で時間の次元を含み感覚的だ。(井戸)

Bruce Nauman (ブルース・ナウマン)”Depression(くぼみ)”1977年
http://images.google.co.jp/images?svnum=10&um=1&hl=ja&lr=&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=Bruce+Nauman+Depression&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5

FGT:そのピースでは、私はモニュメンタリティー(記念碑性)とパブリック・アートを研究したかった。パブリック(公共的)であることと外部にあることの間には大きな違いがある。私はそのパブリック(公衆)が私のピースとより相互作用を持ち得ることを望んでいる。それらは賦課ではない。それらは如何に情報が意味に変換されるかに関係している小さなことだ。ある日私は(私のインスピレーションの源泉である)ニューヨーク・タイムズを読んでいた、するとVeteran’s Day(復員軍人の日)のセールの莫大な広告があり、私は考えた、私達の文化の中で私達はもはや記念しない(祝辞・儀式をもって祝わない)、私達はショッピングに行くのみだ。メーシーズ(米国のチェーンの百貨店)は莫大なセールをし、それが祝うことだ。

→日本語の「パブリック・アート」は僕は嫌いなんだけど、それは外部にあることだけを示してパブリック(公共)なわけがないからであり、だいたい「公共のアート」とは本当に存在するのか?何なのか?疑わしい。これは別に日本だけの現象ではないようである。(井戸)

RN:あなたはメーシーズのセールがパブリック(公共の)・アートであることには近づかないと思っているのかい。如何なる場合でもパブリック(公衆)は普通はパブリック・アートを好きではない。

FGT:それは大抵それ(パブリック・アート)が全然パブリック(公衆)と関係を持たないからである。だれかは彼のスタジオで大きな作品を作り、それを外部に運搬するだけだ。

RN:何かがプリントされる殆どいかなる時も、そのプリントの中のそのアピアレンス(様相)の単なる事実によって、それは意味を持つ。それはリアルな(実在の、現実の)ものになる。あなたがあなた自身に書いた一行をあなたが取り上げ、プリントされた情報としてそれを提示した時でさえも、あなたは文字通りそれをしるし、それに重み(影響力、重要さ)を与える。

P.49
FGT:あなたがかつて特別な媒体で得ていた情報が突然別のものにシフトした(転じた)とき、あなたはその物語の中に断絶があることを理解する。再び、これを私が新聞に魅了されていることから引き出すと、最近、私はとても大きな紙のシートの中心にニュースの切り抜きを置いたピースを作ったばかりだ。それは通常如何にニュースが現在在るかというものではない。文脈から切り離して考えることによって、私は時々これらの断絶の一つに正確に目標を定めることができて、私達は私達がだまされていたことを理解するだろう。というのも誰かは文化に巻き込まれているから、Fitzwaterの「それがプロセスのすべての部分だ。」のように、最も興奮することは、これらの断絶を見ることである。

RN:彼の所見は私に尋ねさせる、私に反して使用され得ない何かを言ったり行ったりすることが可能であるのか?と。あるいは、すべてのことは、私達がしないこと(取り消すこと)の一部をなんとか言ったりしたりすることであるのか?と。

FGT:そうだ。私が言うすべてのことは私に反して使用され得る。このインタビューは私に反して使用され得る。しかし、私は見解を明確にするのが好きだし、私が信じていることを言うことが好きだ。それは最善の考えではないかもしれないが、これをすべての人に対してより良い場所にしようとするラディカル(急進的)な考えを私はまだ提案し続けている。それが本当に私が関わっているすべてだ。私はそのアジェンダ(計画表、儀式)を信頼している。それがなぜ私がパワー(権力)を恐れているかの理由だ。それがなぜ私が「オルタナティブ(代替的な)」ということばが好きではない理由だ。何のためのオルタナティブ(代替案)だ?。