Donald Judd
Architecture
Hatje Cantz

Donald Judd(ドナルド・ジャッド)
http://images.google.co.jp/images?client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official&channel=s&hl=ja&q=Donald%20Judd&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89
美術家の言葉(ドナルド・ジャッド)
http://www.b-sou.com/palw-Judd.htm
You Tube(Donald Judd)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Donald+Judd&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
The Chinati Foundation(チナティー・ファウンデーション)
http://www.chinati.org/visit/openhouse.php

Art and Architecture(アートと建築)

P.26
Donald Judd:もしアートのユニティー(単一性、統一性)が、同じ多様性(相違、変化)と、そしてまた不完全性と、それでもなお生きる為の同じような努力(活動)の幾らかをともなって、ある個人のそれと同じネイチャー(本性)を持つのであれば、アートは特別な種類の経験でも、知識でも、特に、感覚でもない。それはその発展(展開)の中で特別(固有)なのであり、その本質的なネイチャー(本性)の中で特別(固有)なのではない。アートは一般的に感情や感覚に分類上追いやられ、両方とも思考よりも劣ったものだとみなされる。せいぜい、ベネデット・クロオチェの作品の中で記されるように、それはあまりにはるかに感覚の中に置かれた。彼にとってそれ程感覚に訴えない言葉で、それがここかしこにあるよりも世紀の変わり目にイタリアにおいてよりよく、彼はアートの制作と理解を「直観」と呼んだ。しかし彼はまた「直観」をその過程(道、方法)の中の認識に関するものだとみなし、それはその言葉を法外にうまく利用する。彼は、すべての人がそうであるように、アートとサイエンス(自然科学)の間の決定的な差異に関心がある。確かにアートは、両方の利益に対して、サイエンスと同じ方法での認識に関するものではない。
私はいつも思考と感覚の間の差異を少なくとも誇張されたものとみなしてきた。つまりこれは人間性の中心の事実に対して生じさせられた小さな記述である。私はそのアイデア(考え)の始まりを見つけようとしたが、見つけられなかった。おそらくそれは初期キリスト教の中で発展された。私はいつもそれは、それが神秘主義やその種の信仰の為には便利だから、キリスト教の心(精神)と身体の区別(差異)のせいにしてきた。すべての経験は、大きいものも小さいものも、感覚を含んでいる。つまりすべての思考は感覚を含んでいる。すべての感覚は思考を含んだ経験に基づいている。感情あるいは感覚は単に経験の素早い総計(累積、加法)であり、それの幾らかが思考であり、私達が素早く行動できるように必然的に素早いのだ。それは理性に基づかない(不合理な)のではなく、実質的には正反対だ。思考は厳密で、孤立していて、ただ論理的なのではなく、感覚と呼ばれているその経験の蓄えを絶えず使っている。さもなくば私達は決してAからZまで辿り着けなく、かろうじてCまで辿り着く、なぜならBはいつも再点検されなければならないからだ。それは短いライフ(生命、人生、生活)であり、少しのスピードが必要だ。もしアートのネイチャー(本性)が私達のネイチャー(本性)と同じものであり、もし思考と感覚の間に区別がなければ、アートはまさに私達の経験がそうであるように認識に関するものである。そしてアートはもはや全体として私達の経験よりも劣るものではない。

→ニーチェが「道徳の系譜」で、道徳とは弱者が妬みや嫉妬(ルサンチマン)によって自己正当化の為に発明(捏造)したものだとする様に、ジャッドは思考と感情の差異の系譜を知ろうとしたんだろう。思考と感覚はもともと同じもの、あるいはそのグラデーションでも、ソシュールに習えばそれは差異の必要性により生じた言語の差異のシステムの中の差異化の力による作用なんだろう。しかしその必要性がどこからきたかと問うと、それは日本人にとって「粉雪」と「わた雪」の違いが必要なのと同じくらいの必要性から出てきたのだろう。初期キリスト教がそれを利用したのかもしれない。
ジャッドはもともと哲学を専攻していた。(井戸)

Benedetto Croce(ベネデット・クロオチェ)
http://en.wikipedia.org/wiki/Benedetto_Croce
Friedrich Wilhelm Nietzsche(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7
Ferdinand de Saussure(フェルディナン・ド・ソシュール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB
Edmund Husserl(エトムント・フッサール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB