Dan Graham
Contemporary Artists Series
Phaidon

Dan Graham(ダン・グレアム)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=Dan+Graham&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
http://en.wikipedia.org/wiki/Dan_Graham
You Tube(Dan Graham)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Dan+Graham&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

P.16
M.F.:私にとっては、進行中のヴィデオの一部としても、あるいは、鏡のインスタレーション/パフォーマンスの一部ととしても、あるいは、建築のピースの一部としても、それは観客が巻き込まれた、あなたの完全に実現した作品の始まりだ。このような最も初期のピースは何だったんだい?

D.G.:「Two Consciousness Projection(s)(二つの意識している投影)1972年」、それはパフォーマンスでもあり、自己完備したヴィデオのフィードバックループ(帰還ループ)だった。ある女性が彼女自身のテレビモニターに映るイメージにおいてのみ意識を集中し、直ちに彼女の意識の内容を言葉で表さないといけない。ある男性は、彼自身の外部である、モニターと繋がれたヴィデオカメラを通して彼女を客観的に観察しているその女性にのみ意識を集中する。彼はまた彼の知覚を言葉で表す。その観客は両方を同時に見て意識の部分的な重なりを目撃する。そのピースはR.D.LaingからGregory Batesonにいたる、心理学や社会人類学やサイバネティックスの中の様々な考えとの類似を引き出した。

R.D.Laing
http://en.wikipedia.org/wiki/R._D._Laing
Gregory Bateson
http://en.wikipedia.org/wiki/Gregory_Bateson

P.17
M.F.:それじゃ、その種の初めてのピースはの中で、観客(見物人)はパフォーマー(演じる人)であり、ある意味では、アーティストの代役を務めているんだ。それはまるであなたが講義の状況をパフォーマンスに変換したかのようである。あなた、つまりアーティストは観客(見物人)でもありコメンテーター(解説者)だった。

D.G.:しかし、私はまたアメリカの(心理)行動主義とヨーロッパの現象学を対比させていた。私が観客あるいは私自身の解説をしたとき、私は(心理)行動主義者的に、いくらかはアメリカのスポーツ・アナウンサーのように、私自身あるいは彼らについて話した。しかしながら、そのピースはまた過去の時間を変えることと関係していたので、私は1970年代のアート界ではポピュラー(人気のある、一般的)になりつつあった一種のヨーロッパの現象学的解説をまた使用した。

行動主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%8B%95%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6
現象学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6

M.F.:確かあなたは観客の前に立っていましたよね、心の中で構築された物語とともに、それはそのとき即興でつくられたものだった。(Perfomer/Audience/Mirror,1977年)そういう感覚では、それは音楽のようだった。あなたは観客を見ているあなた自身をことばで述べ、それから、あなたは振り返り、あなたの後ろの鏡を見て、あなた自身と鏡を通して観客をことばで述べ、それからあなたは同じように観客をことばで述べた。

D.G.:それは計画的(意図的)であることを示す一つの方法としてもっと単純に始まった。初めてのピースでは、私の計画的(意図的)であること(それは私が現象学的に見ていることであるが)の中で私自身をまたことばで述べている間、私は私の意図について話した。しかし、私はその作品がどうなるかという考えは持っていなかった。これはIntention/Intentionality(1976年)-without a mirror-に発展した、それは私が始めに観客を見て彼らをことばで述べ、それから彼らが私を見ているように私自身をことばで述べるものだった。私は私自身を見ることができなかった、それでいつもわずかな時間の遅延があった、なぜなら私はアクションをしてそれから少し後にそれをことばで述べたからだ。後ろに鏡を置くことはより観客を巻き込んだ、なぜなら私がその観客をことばで述べることができたからであり、それは観客が彼ら自身を一種の即時の時間の内に見るのに、私の解説は現象学的であるような状態だった。