Alvaro Siza
Architecture writings
Skira

Alvaro Siza(アルヴァロ・シザ)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=Alvaro+Siza&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5&gbv=1
You Tube(Alvaro Siza)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Alvaro+Siza&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

P.13
パート1 リフレクション(内省、熟考)

P.15
序文
Siza:私は時々書く必要性を感じる。ー だがら書くんだ。
他の時には私は書くように頼まれる、それを同意した時には書くことは難しい。
なぜならすべてのテキストは義務になるにちがいなく、あるいはそれはそんなには意味を為さないだろう。
同じようなことが建築の実践でも起こる。
しかしながらそれ自身のすべての固有の問題とともにあるプロジェクトと困難は、確実性(本物であること)や表現の為の必要性を探し求め、私達をサイレンス(沈黙)や話す為の理由を待つことから開放してくれる。それはもし私達が注意深くなかったら終わりのないものになりうるものである。
その上、その物事と最もエキサイトする人々は支配する(強い勢力を持つ)。(議論の最後に別の沈黙があるのは奇妙なことであるが、静穏と有効性の意味においては、それがまさにその方法だ。)
私が建築について考える時、私はいつも著述家から、特に、レジスター(音域、言語使用域)とサウンド(音響、音調)の最も巧みな発明家であり、孤独の住人である詩人からの例を取り上げる。

P.17
ドローイングの重要性
Siza:一般的な言い方で話すと、建築をすることを選んだ人は「如何に描くか」を知る必要はなく、「如何に上手に描くか」をそのまま放っておけばよい。ドローイングは、自律的な言語の様に思われているが、デザイン(設計、計画)には絶対必要なものでもない。素晴らしい建築の大部分は「a bengala(注1:ドローイング(スケッチ、図面)無しで棒きれで地面に描いた線に従って建物を建てる一般的な方法を示すポルトガル語)」によって生産され作られている。
それはまさに私達のすべてが描くことができ、描く必要があるということである。
取り憑かれたような(強迫観念的な)特殊専門化はユニバーサル(万人の、普遍的な、万能の、万物の)能力を萎縮させる傾向があり、いくらかの人々のみいくらかのことを発展させることを許され、要求される。(そして他の人々は許されず、要求されない。)しかしながら、それがドローイングに戻ってきたとき、いかなる子供もそれ自身を活発にそしてよく表現することができる、人々はそのようなことに無能になり、このようなことが気の狂ったことだと見なされるけれども。
間違いあるいは先生の役割の放棄の外に、結局は彼らは「スキル(熟練、技術)」を持たないということが殆どすべての人々によって言われた。
ドローイングはその人自身あるいは他者との伝達の形式である。建築家にとってもそれは同様で、多くの他の物事の中にあって、ワーキング・ツールであり、学ぶための、理解するための、伝達するための、変換するための方法であり、デザイン(設計)するための方法である。